僕の座右の銘は、「実るほど頭を垂れる稲穂かな」。
この言葉を聞いたことがある方も多いでしょう。シンプルでありながら、その奥には深い真理が込められていて、僕が今でも人生の指針としてずっと大切にしている言葉です。
この言葉と出会ったのは、僕がまだ大学時代、アパレルのセレクトショップでアルバイトをしていた頃のことでした。きっかけは、ごくごく些細な、ふとした日常の会話。しかし、その言葉を教えてくれた人との出会い自体が、僕の人生観に静かに、そして確かな影響を与えてくれました。
教えてくれたのは、当時50歳くらいの公務員の男性で、毎週のようにふらっとお店に立ち寄っては、何かしら買って帰ってくれる常連のお客さんでした。彼から学んだ「謙虚さ」の哲学は、僕が社会に出て、様々な人間関係の中で葛藤する中で、何度も立ち返る心の拠り所となっています。
ふらっと来て、ちょっと話して、さらっと買って帰る人:軽やかな「常連さん」の佇まい
彼は、いかにも“常連”という、店員に馴れ馴れしく話しかけたり、特別扱いを求めたりするタイプではありませんでした。毎週必ず来店するのに、なぜか「通い詰めてる感」がない。どこか軽やかで、柔らかい雰囲気をまとった人でした。まるで、風のように静かに現れては、また静かに去っていくような。
お店にいる間も、彼は急いでいる様子もなく、ゆっくりと服を見ていました。僕が「何かお探しですか?」と声をかけると、にこやかに「いや、ちょっと見てるだけだよ」と答え、そこから少しだけ会話が始まる。流行りの話、天気の話、時には僕の学生生活のことなども、優しく聞いてくれました。営業トークを求めているわけでもない、ただのたわいもない会話のキャッチボール。それが、不思議と僕にとって、心地よく、心が落ち着く時間になっていました。
そして、気に入ったものが見つかると、多くを語らず「じゃあ、これもらうわ」とさらっと購入し、笑顔で帰っていく。その立ち居振る舞いは、まさに「実るほど頭を垂れる稲穂かな」という言葉を体現しているかのようでした。彼は、その存在自体が、僕にとっての「お手本」だったのです。
「実るほど頭を垂れる稲穂かな」――その人がくれた言葉の重み
ある日のこと、いつものようにたわいもない話をしている中で、彼がふとこう言ったのです。
「『実るほど頭を垂れる稲穂かな』って言葉、いいよね」
突然出てきたその言葉に、僕は「…え?」と一瞬固まりました。普段の会話の流れとは少し違う、哲学的な響きがあったからです。意味が分からず首を傾げていると、彼はにこやかに、しかし深みのある声で教えてくれました。
「うん。たくさんの知識や経験、成功を収めた人ほど、自分をひけらかすことなく、謙虚で、低姿勢でいられるものだよ、という意味だよ」
その言葉は、まるで彼の柔らかいオーラが形になったかのようでした。彼自身が、まさにその言葉通りの、決して偉ぶらず、誰に対しても分け隔てなく接する人だったからです。その人柄が背景にあったからこそ、言葉の重みがスッと僕の心に入り込んできて、深く刻み込まれたのだと思います。彼の言葉は、単なる知識ではなく、彼自身の生き様が凝縮されたものとして、僕の記憶に鮮烈に残りました。

ぐいぐい行けなかった僕にとっての“ヒント”:信頼を築く、もう一つの方法
僕はどちらかというと、人付き合いがあまり得意な方ではありませんでした。特に、初対面の人に自分からグイグイ話しかけたり、距離を詰めたりするのは苦手で、アパレルの接客バイト中も、店長から「もっとお客さんに話しかけなよ」と注意されることもありました。どうすればお客さんと打ち解けられるのか、正直悩んでいた時期でもありました。
でも、あのお客さんと接しているうちに、ある大きな気づきがありました。“話し上手”じゃなくても、信頼関係って築けるんだな、と。そして、“距離の詰め方”にも、いろんなやり方があるんだな、と。
彼は決して雄弁ではありませんでしたし、僕に何かを強要することもありませんでした。ただ、静かに、やさしく、自然体で僕と接してくれた。その穏やかな佇まいと、無理のないコミュニケーションの取り方が、当時の僕にとってはすごく魅力的に映ったのです。それは、僕自身のコミュニケーションスタイルに対する、大きな「ヒント」となりました。「自分は自分らしくていいんだ」という、心の奥底からの許可を得たような感覚でした。彼の存在が、僕の苦手意識を少しずつ和らげてくれたのです。
社会人になってからこそ、思い出す場面がある:謙虚さが生むリーダーシップ
大学を卒業し、社会に出て働く中で、僕は様々な人と出会い、多様な組織文化に触れてきました。そして、改めて「自分がどうありたいか」を考えるとき、あの時彼がくれた言葉、そして彼の佇まいが、ふと頭に浮かぶことが何度もあります。
会社という組織の中では、知識がある人、肩書がある人ほど、つい偉そうに振る舞いがちです。しかし、本当に尊敬されるのは、そうではない人だと感じます。むしろ、本当に「実っている人」ほど、静かに、そして優しく、誰に対しても謙虚に接しているものです。彼らは、自分の知識や経験をひけらかすことなく、相手の立場に立って物事を考え、行動する。その姿勢は、周りの信頼を自然と集め、真のリーダーシップを発揮する土台となります。
たとえば、後輩から仕事の相談を受けたとき。「こんなことも知らないのか」と突き放すのではなく、「うんうん、わかるよ。最初は難しいよね」と、寄り添って話を聞けるか。たとえば、部下のミスをどう受け止めるか悩んだとき。一方的に責めるのではなく、まずは相手の状況を理解しようと、頭を下げて話を聞けるか。
そういった場面で、「実っている人ほど、頭を下げられる」という彼の言葉と姿勢が、僕の心を静かに照らしてくれます。それは、表面的なスキルや実績以上に、人間としての器の大きさを示すものだと、僕は確信しています。


おわりに:静かに実る、稲穂のような人に:生き様が言葉になる
たまに、あの人のことを思い出すことがあります。彼の名前も、連絡先も知りません。今はもう会うこともないけれど、あの頃の会話や彼が醸し出していた穏やかな雰囲気は、ずっと僕の中に残り続けています。
僕が「実るほど頭を垂れる稲穂かな」という言葉を座右の銘にしたのは、単に言葉そのものが美しいからではありません。その言葉の真の意味を、自身の生き様で体現していた“誰か”と出会えたからです。言葉は、それを語る人の人間性や経験が乗ることで、何倍もの重みと輝きを放つのだと、彼が教えてくれました。
僕もいつか、そうありたいと心から願っています。たとえ、どれだけ知識や経験を持っていたとしても、それをひけらかしたり、声高に主張したりするんじゃなくて、自然体で、静かに、やわらかく。
まるで、豊かに実った稲穂が、重みに耐えるように頭を垂れるように。そんな、内側から溢れる謙虚さと包容力を持った人間になれたら、これほど嬉しいことはありません。僕の人生の目標の一つは、まさに「稲穂のような人」になることなのです。

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