正しいことを言ってるはずなのに、疲れていた
昔の僕は、なんでも「正しく」あろうとしていた。
職場での意見交換、ネット上の議論、果ては家族との会話まで──
何かにつけて「筋を通す」ことにこだわっていた。
でも、あるとき気づいてしまった。
正しさを振りかざすたびに、孤独になっていく自分がいることに。
「正論」が人を遠ざけることもある
これは持論だけど、正論って、案外不器用な武器だ。
たとえば、同僚の何気ない一言に「それ、ちょっと違いますよ」と返したくなる。
でも、言われたほうは、正しいかどうかより「否定された」と感じる。
正しいことを言ったはずなのに、場の空気は悪くなって、僕の居心地も悪くなる。
それを何度も繰り返して、やっとわかった。
正論を通すことと、人と心地よく関わることは、必ずしも両立しない。
むしろ、正しいことを言いたくなるときって、相手に勝ちたいときだったりする。
穏やかさは、我慢ではない
じゃあ「穏やかに生きる」って、どういうこと?
それは、我慢して自分を押し殺すことじゃない。
違う意見にいちいち反応せず、「ああ、そういう考え方もあるんだな」と流せる余白を持つことだ。
穏やかであるためには、自分の感情にちゃんと気づいている必要がある。
怒りが湧いたとき、「いま、これは反応しなくていい」と見送れるようになること。
そのスキルこそが、現代の“強さ”だと思う。

“正しさ”を手放して、ようやく笑えた
ここ数年で、僕の価値観はガラッと変わった。
議論より雑談。
説得より共感。
論破より、「うんうん、そう思う人もいるよね」という相づち。
そういう姿勢でいると、不思議と自分の暮らしまで整ってくる。
対立のない日々は、エネルギーを節約できる。
人と比較しないから、自己肯定感も減らない。
そして何より、「笑顔の量」が増えた。
誰かを正そうとしなくなって、ようやく肩の力が抜けた。
僕が選んだのは、争わない強さ
この歳になって思う。
正しさは、ときに暴力になる。
だから僕は、穏やかさを選ぶようになった。
自分を守るために、他人に突っかからない。
言いたいことがあっても、まずは一呼吸置いてみる。
「この話題、本当に今言うべきか?」と自問する。
そうやって少しずつ、自分の機嫌を自分で取る技術が身についてきた。
正しくなくていい。穏やかでいたい。
それが今の僕の、生き方の軸だ。

コメント